蒼白の身体
6月下旬。雨上がりの湿度と夏の訪れを実感させる猛暑日と呼ばれる気温。じめじめと蒸し暑く、外を歩くだけで体力が削がれる。じっとりと脂混じりの汗が額から垂れる。 「はぁ……、はぁ……、ウッ……」 足取りが重く、吐く息は荒く、呼吸は苦しい。時折目の前が霞むような感覚に、思わずえずいてしまう。 ここ最近、特に胃の調子が悪く、気を抜くと吐き気に襲われて、今朝も朝食をトイレで戻してしまった。作ってくれる母には申し訳ない気持ちが先行し、全て一旦飲み込んでから吐き出した。先日も原因のわからない高熱で母に仕事を休ませてしまったから、これ以上迷惑はかけたくない。日頃から胃痛は頻繁に起こっていたが、ここ数日は特に食後のみぞおちの痛みがひどかった。 「なあ蒼、大丈夫か?」 ぴょんぴょんと飛び回りながら元気に歩く翼に、待ってくれとも言えずに、胃の痛みと気持ち悪さに耐えかねてしゃがみ込んでしまうと、翼は俺の元に駆けつけた。 「はぁ、ごめん……。……だい、じょ……ぶ」 我ながら大丈夫ではないだろと思ったが、俺がこんなところで立ち止まっていたら、交通の妨げになるし、翼も遅刻してしまう。 悪いとは思いながら翼に少し体重に預けて立ち上がると、またのろのろと歩き出した。無意識的に手で胃をさすり、心臓のあたりを押さえて小刻みに息を吐いた。 「つば、さ……」 しばらく歩くと、また立ちくらみがして、思わず翼の肩にもたれかかった。 「ごめ……う゛っ……」 咄嗟に翼から離れると、その反動で胃の中のものが込み上げてきた。喉元まで上がってくる酸っぱい感覚は、鉄の味がした。数日前から同じような感覚があったが、極力トイレ以外で吐き出さないように我慢して抑え込んでいたのに、こんな道中で襲ってくるなんて。 「はっ、……、はっ……」 普段ニコニコ笑って、他人の気持ちなんて理解してないだろうと思っていた翼は、眉を下げて心配そうにこちらを見つめる。そんな翼の顔を見たのは翼が骨折したときぶりだ。 「蒼、今日学校休んだほうがいいって」 自分でもそうは思った。本当は今日学校を休もうかと思うくらいには調子が悪かったが、金曜日なこともあり、今日さえ乗り切ったら土日があるから大丈夫なんて安易に考えていた。それと、もう一つどうしても今日にこだわりたいことがあったのだ。 そんな状態ながら家から学校までの道のりの半分以上は歩き、学校まであとほんの数分というところまで歩いていた。冷静に今の状況を考えると、帰るよりも保健室に行くほうが賢明だ。 「いや……、家に、帰れる、気が、しない……」 掠れた声で、翼の提案を拒否した。声を出すことってこんなにも労力を使うものだっただろうか。 このまま学校に行ったところで迷惑をかけることはわかりきっているから、帰りたいのは山々なのだが。 「じゃあ、学校着いたらすぐ保健室行こうな」 いつもは耳元でうるさい大きな声を出す翼が、俺を気遣って、優しく落ち着いた声色でそう言うと、俺に合わせてゆっくりと歩き始めた。 「蒼くん、大丈夫?! 顔真っ青だし、フラフラだよ?」 正門に近づいた頃、自分達を見つけた雲雀は、校門を挟んで反対方向の道から駆け寄り、開口一番にそう言った。一瞬顔が曇ったが、すぐに気を取り直して、俺のリュックを背中から下ろし、首元のボタンをひとつ緩めた。 「翼くん、すぐ保健室に連れて行こう? 蒼くんの鞄は私が持つね」 雲雀の気遣いはさすがだ。彼女を心配させないように一刻も早く保健室に辿り着かねば……。そう思ったが、無情にも先程までよりも強い胃の痛みと吐き気に襲われ、女子が見ている前で下品にもオエッと強くえずいて吐き出してしまった。朝と同じ、水気の多い茶褐色の鉄っぽい吐物が手についた。それと同時に、呼吸は速くなり、視界が大きく歪むと立っていられず、あっという間に地面に崩れ落ちた。汚いなんて思う余裕もなく。 「蒼くん! 蒼くん! しっかりして……!」 「蒼!! 蒼!!」 雲雀と翼が自分を呼ぶ声が聞こえる。しかし、それはかなり遠く、徐々に何も感じなくなった。意識を失ってしまう、それだけはなぜかはっきりと分かった。 ** 「なあ、蒼、こっから飛ぼうぜ!!」 翼はいつものように俺を引っ張り、お決まりの文句を口にした。 「嫌だよ。こんなところから落っこちたら死ぬだろ」 下に広がるのは波が高い一面の海。今にも崩れ落ちそうな崖からの距離は数百メートルはある。 「ほら、早く行こうぜ!」 全く人の話を聞かない翼は、俺の意思に反してせかせかと背中を押す。抵抗していると、崖はピキピキと音を立てて崩れていく。 気づいた頃には、体は宙を舞っていた。というよりも、高速で落下していた。 ああ、俺、死ぬな……。 死を前にして、妙に冷静に自分の状況を理解していた。 「蒼!! 蒼!!」 最後まで翼が俺を呼ぶ声は鮮明に聞こえた。遠いはずの翼の声は、何故だが次第に大きくなっていく。 水面に叩きつけられると思っていたが、一向にその感覚はなかった。 恐る恐る目を開けると、思っていたのとは随分と違う光景が広がっていた。 白い天井、吊り下がった赤黒いもの。そして俺が目を開けたことに気づいて、覗き込む二つの顔。目は涙に滲んでいた。 はっきり意識が覚醒すると、そこが病院であることは容易に理解できた。そして今、自分がベッドで横たわっていること、複数の管が体に繋がれ、口元には酸素マスクがつけられていること。胸にも何かつけられていて、右の方から規則的に聞こえるピッピッという音から、心電図を見る機械が動いているということがわかった。よかった。頭は思ったよりも冷静に状況を把握できている。 ただ、自分が思ったよりもまずい状況であることも同時に理解した。テレビでしか見ないような、重い患者につけられる装備ばかりが繋がれているからだ。 そうだ。とにかく、翼にも雲雀にも迷惑をかけたことを謝らないと。 「っ……あ、ひ…………、はーっ、……め……ん……はーっ、はっ、」 声を出そうとしたが、驚くほど声が出なかった。そればかりか、あまりの苦しさに息の仕方さえわからなくなりそうだった。点滴のような管が繋がれた重たい腕で喉の辺りを押さえて、浅い呼吸を繰り返す。ピッピッと規則正しく鳴っている音は明らかに早くなっていく。 「蒼くん、無理しないで!」 雲雀は涙をぽたぽたと零しながら、俺の手を取ってそっと元の位置に戻した。声も出せず、満足に呼吸もできない。腕は自分のものとは思えないほどに重く、全身がだるい。呼吸の苦しさの方が勝っていて、胃が痛いことなどすっかり忘れていたが、動いたことで刺激されたのか、また気持ち悪さが込み上げてくる。酸素マスクの中に吐いたら地獄絵図だと思ったが、幸い悪心だけで済み、吐物が口から漏れ出ることはなかった。 これ以上何もアクションしない方が賢明だと判断し、全身の力を抜いてぐったりとベッドに身を預けた。その様子がよほど辛そうに見えるのか、雲雀の涙はまた勢いを増した。 「蒼、意識戻ったのね。良かった……」 戸が開き、こちらに向かってきた清掃の制服を着たままの母さんは、俺を見るなりそう呟いた。 そういえば朝登校しようとしたが、あまりにものだるさに、保健室へ直行しようとしている途中だった……というところまでしか記憶にない。今までずっと意識を失っていたんだろう。今は何時で、翼と雲雀は一体いつからここに居てくれているのだろうか。 「翼くんも雲雀ちゃんも遅くまでありがとうね」 母さんは二人にお礼を言った。“遅くまで”という言葉から、長いこと自分が意識を手放していたことが窺えた。 「朝も倒れた蒼を介抱して、放課後真っ先に駆け付けて、蒼が目を覚ますまでずっと呼びかけてくれていたのよ」 母さんは俺の考えていることがわかるのか、気になっていたことを説明してくれた。 そしてまた引き戸を引く音がすると、今度は出勤したスーツのままの父さんの姿が見えた。 「藍子、入院に必要な荷物はここに置いておくよ。蒼のこと任せて悪いけど、一旦翼くんと雲雀ちゃんを家まで送ってくるよ。外はもう暗いし、二人とも歩きだって聞いたからね」 「むしろお願いするわ。私も送って行って二人のご両親に頭を下げたいところだけど……」 ああ、親にも、二人にも、二人の親にも、……いろんな人を巻き込んで迷惑をかけてしまっている。自分は何の取り柄もなく、文句ばかり言っては成長しようともしない本当にタチが悪い人間だというのに。 「蒼くん、自分を責めないでね」 俺の頬に熱いものが伝うと、雲雀はその理由を察したかのように優しく拭った。やっぱり気を遣われてしまっている。 「本当はずっとついていたいけど、今日は帰るね」 「明日も来るからな!!」 二人はそう言うと、学校からそのまま持ち帰ったであろう荷物を持って、父さんの後をついていった。母さんも二人を見送りに廊下までついて行った。 うぅっ……ぐすっ、ひくっ、 誰もいなくなった部屋で、どうしようもなく悲しくなって泣かずにはいられなかった。寂しいというわけではない。ただ、自分の情けなさがありありと感じられて涙が止まらなくなったのだ。泣くとまた体力を使って呼吸が苦しくなる。しゃくり上げると一緒に胃の中身も吐き出してしまいそうだ。 「蒼、辛かったね。お母さん、あんたがずっと具合悪いの心配してたのに……。無理にでも休ませて、病院連れて行くべきだったね……」 泣いている俺を見て、戻ってきた母さんは俺の頭を撫でながらそう言った。母さんの目にもまた涙が滲んでいた。 「薬の飲み過ぎとストレスが原因の胃潰瘍でね、過労気味なのと胃からの出血がひどくて、貧血の症状がかなり重いって聞かされたわ。様子見ながらだけど、1ヶ月近く入院することになるかもしれないわ」 声を出せない俺をチラリと見て、母さんは涙ながらに続けた。 「ここ最近いつも頭痛いって、今日はだるいからって、何度も薬飲んでたよね。気持ち悪いって、胃が痛いって、ずっとずっと前から蒼は言ってたよね。テスト頑張らなきゃって、遅くまで起きて、熱があるのにずっと気を張って。ずっとご飯食べるの辛かったよね……。お母さん、あんたのこと全部見てた。それなのに、それなのに……、何も、何もしてあげられなかったね……」 翼も雲雀も心配して泣いてくれた。みんながいる前では気丈に振る舞っていたが、一番泣きたい気持ちだったのは、紛れもなく母さんだ。 母さんは、俺が心配されるのが嫌だということ、休めば休むほど、焦って空回りすること、それを理解して見守ってくれていた。ということは俺もちゃんとわかっている。毎日の食卓も、弁当も、胃に負担の少ない、栄養のあるものばかりだった。だから、そんな母さんの愛情に俺なりに応えようとしたのだけど。やっぱり俺はダメだった。テストも結局は良い点が取れず、体調を崩して心配をかけた。それだけならまだ良かったのに。こんな……。 泣き崩れる母さんを見て、母さんは何も悪くないと、いつも愛してくれてありがとうと言いたかった。普段は素直じゃない言葉ばかりが出てくるのに、どうしてこんなときに声は出ないのか。体は動かないのか。なんて自分は親不孝なんだ。喉の奥がじーんと熱くなり、涙はまた堰を切ったように止まらなくなった。 静かな個室で、早いテンポで鳴り続ける心電図モニターの音と、俺と母さんの嗚咽が響く。 「はぁ、はぁ、面会時間ギリギリになっちゃった……、って……ちょっと、大丈夫?! 蒼もだけどお母さんも」 そんな部屋に飛び込んで来たのは、息を切らした姉ちゃんだった。 「蒼……良かった……意識ないって聞いてめちゃくちゃ心配したんだからね」 俺が目を覚ましていることに安心した姉ちゃんもまた涙目でそう言った。 「翠は無理して来なくてもいいよって言ったのに」 母さんは驚いた様子で、一瞬で泣き止んだ。 「お母さんが震えた声で、「蒼が倒れてね……今……意識がなくて……もしかしたら……もしかしたら」なんて、泣きながらすっごく深刻そうに言うんだもん。ほんとは電話もらってすぐ飛んで来たかったけどシフト入ってて休めなかったのよ」 姉ちゃんは東京の短大に進学して、卒業後もそのまま東京の美容室で研修をしている。ここに来るには結構なお金と時間がかかる。 「てか、あんた本当に大丈夫? 顔真っ白じゃん……」 泣き疲れて体力を消耗した俺の身体は、なんとか身体に酸素を取り込もうと苦しげにぜいぜいと喉を鳴らしていた。それを見た姉ちゃんは的確に指摘した。 「あたし看護師さん呼んでくるから」 さっきまでの母さんの様子を見て、姉ちゃんの話を聞くと、母さんがどれほど動揺していたのかはよくわかる。俺の潔癖も神経質なところも考えすぎる癖も全部母さんゆずりのところがあるから、きっとあれこれ悪い想像ばかりしてしまったんだろう。 「翠にも蒼にも情けない姿を見せちゃったわね……。私が泣いててどうするのよ……。今一番苦しいのは蒼なのに、ごめんね」 母さんは俺に謝った。母さんが謝る必要なんてないのに。そう思っていても、口には出せない。呼吸はどんどん苦しくなるばかりだ。 「マスクが少しズレちゃったのね。ちょっと顔回りを綺麗に拭いてからもう一度付け直します」 姉が連れてきた看護師さんはそう言って、少し口から漏れた吐物と鼻水を綺麗にして、清潔な酸素マスクに取り替えると、俺の頭を少し持ち上げて付け直した。 「血中のヘモグロビンが通常の半分以下になって、体に十分な酸素を運べなくなっています。少し動いたり筋肉を使っただけでもかなり動悸や息切れがある状態なので、難しいかもしれないけど、極力何もせず、何も考えずに安静に努めてください」 看護師さんは柔らかい口調で丁寧に説明すると、頭を下げて退室した。 朝少し動いただけで呼吸が苦しかったのはそのせいかと気づくと、どれほど自分の身体が衰弱しているのかなんとなく理解した。たくさんの管や線を身体にくっつけてベッドから動けずにいるのだから、それも当然か。数分前まで意識さえも失っていたほどだ。これまでの不調のツケが一気に来たのだろうなと思った。 「て、お母さん面会時間あと10分だけど、荷物整理終わってなくない?」 「あら、本当! 泣いてる場合じゃなかったわ、しっかりしないと」 母さんと姉ちゃんは大慌てで、家から父さんが持ってきた鞄の中身を広げ、テレビが置いてある台の収納にテキパキと入れていく。首を動かすのもだるいので、視界に入る限りの母さんと姉ちゃんの動きを目で追った。慌ただしくて少しおかしかったが、今日初めて笑えたかもしれない。 「もう、お父さんってば、パンツとタオルはちゃんと袋分けてよね」 そう言った姉ちゃんが自分の下着を持っているのも、父さんが勝手に俺の部屋からそれを持ち出したのもなんだか複雑な気持ちがしたが仕方ないと思うことにした。全ては倒れた俺が悪いんだから。 「ふぅ、なんとか間に合ったわね」 「藍子、翠、そろそろ面会終了だって」 バタバタとしていた母さんと姉ちゃんがちょうど一息ついたところに、父さんも加わった。三人は俺が体を動かさなくても顔が見える位置に改めて立った。 「蒼、今は辛いかもしれないけどゆっくり休むのよ」 「そうそう、ちゃんと休んで、ちゃんと良くならないと許さないんだから」 「今まで頑張っていた分、少し休んだって誰も蒼を攻めたりしないから。気にしすぎないようにね」 三人は口々にそう言って、頭を撫でたり、手を握ったりした。口調も力加減もいつになく優しかった。そんな温かさにまたじんわりと熱いものが込み上げてくる。せめて、泣くのなら家族の背中を見届けてからにしよう。……そう思ったのに。 「もう、泣かないでよ! 帰りづらいでしょ」 振り向いた姉ちゃんに見つかってしまった。すると父さんと母さんの靴音も止まった。なんで何もかもうまくできないんだろう。 「ただいま19時をもって、本日の面会時間は終了とさせていただきます。速やかな退室をお願いいたします。本日もありがとうございました」 ちょうど、院内放送が面会時間の終了を告げ、三人は名残惜しそうに部屋を後にした。 さっきまで賑やかだった部屋は急にしんと静まり返り、心電図モニターのピッピッという小刻みなリズムと、自分の苦しげな呼吸だけが聞こえる。 自分の家は特別裕福でもないのに、何故個室なんだろう。ふと疑問が頭に浮かぶ。翼が入院したときは6人部屋の1室だったし、個室しかないわけではないだろうに。不思議に思って理由を考えていたが、頭を働かせようとすると、頭痛が押し寄せ、息苦しさが増した。そういえば、身体に血液も酸素も足りてないんだっけとぼんやり思うと、看護師さんの言っていた通り何も考えない方がいいのだろうと目を閉じた。 一人部屋の静けさが心地良い眠気を誘う。普段は調子が悪くてもなかなか眠れないのに、全身の力を抜くと嘘のようにうとうととしてきた。あれこれ考えてしまう悪い癖も、横になっているだけでだるい身体も、眠ってしまえば気にならない。



