すぐ近くに
 俺の夢はまだ見ぬ両親に会いに渡英すること。物心ついた頃からその目標に縋っていつもがむしゃらだった。そのためならどんな勉強も続けられる。英語力に至っては、同年代の中では群を抜いているという自負があった。
 ただ一方で、それだけでは良くないことも自覚はしていた。していたが……。

 ここ数日雨が続いていた。梅雨だから仕方ないのだが、どうしても気分は陰鬱になっていく。
 6月19日。また1週間学校を乗り切った、そんな日の放課後。何気なく手に取った靴箱の長靴は足首の辺りまで泥水が入っていた。

「またか……」

 この手の嫌がらせにはもうすっかり慣れていたので、冷静に泥水を外に流し、水道で軽く中を洗った。低学年の頃はいちいち隠れて泣いていたが、もうそれほど気にならなくなった。こうして洗えば済む分、ノートが破かれることに比べれば被害はないに等しい。

 びしょびしょの長靴を履き、足元の悪い道を歩き、英会話の教室に向かう。教室は土足だったので、幸いそのまま入っても問題はなかった。

「Kei~Happy birthday!」

 俺が入るなり、ネイティブの先生はそう言ってハグをした。レッスン中に「When is your birthday?」と聞かれ「My birthday is June 19.」と答えた日からずっと覚えて、毎年祝ってくれている。そうか、今日は誕生日なのか。

 クラスでは誕生日になるとアピールする人がいて、両親にプレゼントされたものを見せびらかしたり、友達から何かをもらったり、おめでとうとみなに祝われ、囲まれたりしている。……が、自分はそんな誕生日とは縁遠かったから、すっかり忘れていた。

「You don't seem well. Is anything the matter? 」

 気にしていないようだったが、落ち込んでいるのはバレてしまっている。何かあったのかと聞かれてしまった。

「There is nothing in particular.」

 いつも学校の先生や叔母さんに聞かれたときと同じように返した。俺が言わずに我慢すれば問題にはならないし、そもそも、それをわざわざ英語で伝えるのも何と言えばいいかわからないからだ。

 そんなふうに、英会話の先生は俺のことを気遣ってくれる。俺が3歳になる頃からずっと見守ってくれているから、第2の育て親のような存在ではある。

 いつものようにレッスンを終えると、再び中の湿った長靴で、あちこちにできた水たまりを踏みながら、叔母さんと二人で暮らすアパートに帰っていった。

「ただいま」

 年季の入った玄関の扉を開けると、香ばしい良い香りが漂っていた。

「景くん、着替え後で持っていくから先にお風呂入っちゃって! 荷物はそこに置いてて」

 玄関のホールからダイニングに向かおうとすると、エプロン姿の叔母さんが扉からひょっこりと姿を見せた。

「わかった!」

 白い靴下は汚れた長靴の水分を吸って茶色くなっていたので、むしろそう言ってくれる方がありがたかった。

 できるだけ廊下に足をつけないように大股でお風呂まで向かうと、靴下は一度泥を落としてからとお風呂に持ち込んで、それ以外の服は洗濯機に入れた。

(叔母さん、料理してるのかな?)

 叔母さんは料理があまり得意ではないと自分で言っていたが、いつも心がこもっていて俺は大好きだ。今日出迎えてくれたような料理のにおいは、普段の叔母さんの料理のレパートリーにはなかった。

 叔母さんがまだあっちの部屋に入ってほしくなさそうな感じだったので、いつもより長めにお風呂に浸かった。

「ごめんね景くん、着替え持ってくるの遅くなっちゃって」

 のんびりと今日の英会話の復習をしながら浸かっていると、洗面所から叔母さんの声が聞こえた。

「ありがとう」

 そう言うと、自分の体とボディソープをつけて洗った靴下をもう一度シャワーで流した。

 着替えてダイニングの扉を開けると、真っ先に目に飛び込んできたのは、壁に貼られた手書きのカードに一文字ずつ書かれた『景くん HAPPY BIRTHDAY』という文字だった。

 そして食卓を見ると、叔母さんが今まで作ったことのない料理たちが並んでいた。俺が両親に憧れて見ていた、イギリス料理の本に載っていたものばかりだ。

「叔母さん、これ……」

「景くん、お誕生日おめでとう。ふと思い立ってね、イギリスのお料理を作ってみたの」

 叔母さんは嬉しそうな俺の反応を見て、目を細めてそう言った。

「俺のために……」

 料理が苦手だと言っていた叔母さんが、自分のために時間を割いて作ってくれたという事実がとても嬉しかった。

「上手くできてるかわからないんだけどね……」

 叔母さんは控えめに笑った。

「これおいしい!」

「それはシェパーズパイね、ミートソースに蒸したじゃがいもをマッシュして載せて焼いたの。本場は羊のお肉なんだけど、手に入らなくて牛肉にしちゃったのよ」

 前にポテトサラダを作ってくれたとき、じゃがいもを蒸して潰すのは結構大変だと言っていたから、手間をかけてくれたんだと思った。

「全部すごく、すごくおいしいね」

 今まで食べてきたどんな料理よりもおいしく感じた。

「最高のお誕生日をありがとう」

 それまでがつまらなかったみたいな言い方にはなってしまうが、それでも、俺はこの日が今までの誕生日で一番嬉しく、最高の思い出になった。

「ケーキも作ったから、ごはん終わったら食べようね」

「うん!」

 手作りのケーキ。きっとどんなパティシエが作ったものよりおいしいに違いない。いつもよりたくさんのごはんをお腹いっぱい食べたのに、それが楽しみでワクワクした。

 毎日嫌なこともいっぱいあるけれど、こうして、自分を大切にしてくれる人がいることは、とてもとても幸せなことなんだ。そう思うと、叔母さんへの感謝の気持ちはもちろんだけど、お父さんにもお母さんにも産んでくれてありがとうと思えた。