急落の空は重さを連れて沈む
放課後の校門を出た瞬間、靴の中に水が入り込んだ。 翔太は肩をすくめて立ち止まり、灰色の空を見上げる。冷たい雨粒が顔に当たった。止まることを知らない雨の飛沫が視界を塞ぎ、景色は白んで見える。朝は降っていなかった雨。午後から急落したのだ。 「……大丈夫。駅さえ行ったらあとは汽車に乗るだけやき」 自分に言い聞かせるようにそう呟く。汽車の駅までは歩いて10分。傘が役に立たないほどズボンの裾も肩も背負っていたずっしりとしたリュックサックにも冷たさが染み込んでいく。足の感覚がないほど、靴も靴下も水を吸って冷えて重くなる。どんなに濡れても、駅までだけ耐えれば。そう思いながら正面から容赦無く吹き付けてくる雨風に必死に抗う。 駅に着くと、汽車が通る高架の下には自分と同じ制服が溢れていた。なんとなく駆け巡った嫌な予感とともに、ぐっしょり濡れた前髪から滴る水が鼻筋を伝って落ちる。傘をさしていたはずなのに。 「大雨で運転見合わせやって」 「最悪や!帰れんやん!」 「――もしもし、今学校終わったがやけど」 ざわざわと色々な話し声が飛び交う。 この雨やったら仕方ないよな。けど雨が止んだらまた動くやろ。このときは何故か安易にそう判断し、高架下の人の波をかき分けて、ホームと呼べるのかも微妙な狭い乗降場にある椅子に座ろうと階段を上がる。 屋根のある、エレベーターや券売の前の細い通路にも制服の群れが立ち止まる。椅子にも座れそうにない。湿気が満ちたひんやりとしているのに何ともいえない独特の蒸し暑さに、雨と汗が混ざり合って湿った髪が額に張り付く。 鞄の中からタオルを取り出し、ひと通り身体を拭いて通路の壁にもたれかかった翔太は、ふぅと息を吐きながら携帯電話を取り出した。二つ折りを開いたけれども、少し間を開けて何をするでもなくまた閉じる。 「今日はまだ頼らんでも大丈夫」 そう自分に言い聞かせる。反対する両親に無理を言ってこの学校を選んだんだから、それは当然のことだと翔太は目を閉じる。「なんかあっても簡単に迎えに行けんき」と呆れ顔で言った親の言葉がこびりついている。それなのに、この「新しい人生」を歩み始めて身体が言うことを聞かず、もう何度も頼ってしまった。あれは覚悟を試すために言ったのだ、無理はしなくていいから頼ってくれと、倒れて動けなかった翔太に涙しながら言った母の顔も忘れられない。だから、動ける今日はまだ粘ろうと思ったのだ。 けれど時間はどんどん過ぎていく。一向に運転再開の気配はなかった。待っていた制服たちはじわじわと減っていく。自分だけがひとり取り残されていく気がして心細さが身体をこわばらせた。時間を置いても濡れて皮膚にくっついたシャツの不快感はなくならない。立っているのがつらくなってきた。 他に人がいないことがわかり、3人用に仕切られた茶色いプラスチックの椅子に腰を下ろした。 (……もし、このまま帰れんなったら?) 胸の奥に、じわりと冷たいものが広がっていく。雨に濡れた足先が痺れてきた。指先からだんだん力が抜けていく。時間が経つにつれて、自分が椅子と一体化してしまうのかと思うほど、身体の重さに抗えずに沈み込む感覚。 「もう……ダメかもしれん」 一人のホームに思わず言葉が漏れる。依然続く雨の音が絞り出した声を掻き消す。雨は風に吹かれて、壁と屋根の少し空いた隙間から入ってくる。 16時の汽車も、17時の汽車も来ず、もう18時の汽車の出発時間になった。一つ前の駅は大きな駅で、動き出しさえすればすぐに来るはずなのに。心のダメージと共に倦怠感が滲み出る。体調の急落を自覚すると、もう意地は張らずに頼るべきだと頭ではとっくに理解していた。 後一歩、電話の発信ボタンが押せない。悔しくて涙が滲む。そのとき、翔太の気持ちを察したように母からの着信で携帯電話が震えた。 「なかなか連絡来んなと思いよったら、汽車止まっちゅうみたいやね。あんた今どこにおるが?」 「……っ、……」 電話に出たけれど、涙で詰まった喉はかすれて言葉が出ない。ただ声にならない息が電話に拾われる。 「翔太? どうしたが? ……ねえ、返事して?」 「……っ、……っ、……っ」 電話越しに伝わるのは、降り止まない雨の音と言葉にならない嗚咽と乱れた呼吸。 「まだ学校? 駅におるが?」 「……え……き」 「駅ね。すぐ行くけど、1時間くらい待ちよって。心細かったら、電話繋いだままでええよ」 かろうじて駅にいることだけは伝わった。母の優しい言葉に目にはっていた水の膜は決壊し、こぼれ落ちた。電話を繋ぎ続けていたら、きっと余計に心配をかけそうだと思い、そっと通話を終了する。 もう待っているには心も身体も限界だ。誰もいないから椅子に横になってもいいかな。さすがにそれはしなかったが、どっと押し寄せた疲労感に思わず目を閉じた。 ――翔太、翔太 安心感のある呼び声に反応するように目を開ける。驚くほど瞼は重かったけれど。 「……ぁ、……ん」 声は出ず、口をぱくぱくさせただけだった。 「もう、こんなに濡れて」 屋根があったけれども、微妙な隙間から入ってきた雨が身体を濡らしていたようで、頭も肩もびしょびしょだ。身体は冷えて感覚がなく、静かに震えている。けれど、背中と首のあたりからじんわりと熱がこもってくる。地球の重力が強くなったわけではないのに、立ち上がるのもつらいほど身体が重い。寒さと熱さが入り混じった重たい身体は、自分のものではないようだった。 「しんどいね。車までだけちょっと頑張って」 母は共感と労りが同居した言葉とともに持っていたタオルで濡れていたところをわしゃわしゃと拭き、肩を差し出した。何とかそれにしがみつき、母の温かさを感じる。 「……」 ごめん、ありがとうと言おうとしたけれど、声にはならなかった。母に支えられて、エレベーターに乗り、なんとか車に乗り込んだ。 「家まで寝よっていいよ」 優しい言葉をかけながら、母は翔太が座った後部座席を軽く倒し、ブランケットをかける。安心感と思った以上の身体の消耗にすぐに意識を飛ばす。 次に目を覚ますと自分の部屋の布団の中だった。 いつのまにかびしょびしょになった制服から部屋着になっていて、頭には氷枕が敷かれていて、冷却シートの感覚が気持ちよさが鈍い頭痛を和らげる。 布団に沈み込んだ身体は鉛のように重い。汽車を待っていたときの漠然とした喉の痛みが、咳をすることではっきりと強くなる。咳の合間に漏れる息は熱く湿っていた。回らない頭でも、今発熱していることはわかる。 「あ、翔太。目、覚めた?」 様子を見にきた母は、すぐに駆け寄る。インフルエンザのときみたいに、身体を少し動かすのも怠く、力が入らない。 「しばらくゆっくり休みや」 その言葉は、翔太が風邪を引けば1時間くらい寝込んでしまうことをもう痛いくらいにわかった末に紡がれたもの。 こんなにつらいのに未だに診断はつかない疲労感。下がった免疫、なかなか下がらない熱。あの悪い「未来」をやり直す「代償」だったとしたら良くないシステムだ。体のつらさは心を弱くする。また諦めの気持ちが生まれないわけではないだろうに。



