だから、君の隣にいる
 入学してから約2週間。2日前から本格的に始まった7時間の授業がどうにか終わり、午後の記憶はほとんどなく、もう意識はかなり危なかったけれど、どうしても科学部の体験入部には行きたいと粘り続けた。

 腕を動かすのもだるく、テキパキと帰りの支度ができず、教室を出たのはかなり人が減ってから。壁につかまりながら理科の実験棟がある西校舎へと向かう。教科書やノートがたくさん入ったリュックが肩にめり込みそうなくらい重く感じ、気を抜くと後ろに転びそうだ。何人に追い抜かれただろう。倒れそうな足でゆっくりゆっくり足を前に運ぶ。

「……はぁ……はぁ……す、すみません……もう、……始まってます?」

 生物実験室のドアをスライドさせ、整わない呼吸とともに消え入りそうな声を発する。

「大丈夫だよ。荷物は後ろの机に置いてそこに並んで」

 まだ整わない息。別に走ってもいないし、亀のようにゆっくりと歩いて来たはずなのに、マラソンでもしたのかというくらいに乱れていた。意識していないともつれて転びそうな足を必死に動かして、自分のために説明を待ってくれている先輩や同級生──目が合った同じクラスの池田くんに迷惑をかけないようにできる限り急ぐ。

 けれど、だるさと痛みのある足はなかなかすんなりとは動いてくれない。なんとなくイライラが伝わってきて、居心地が悪い。ただ数歩先の机に歩いて、荷物を下ろして、池田くんの隣に立つだけ。普通なら1分もかからないこともできない。じわりと汗と涙が滲む。

「遅れたんだから急いで」

 痺れを切らした先輩は、もたもたする俺にそう言った。その一言に、全員分の苛立ちが乗っかっている気がして胸を刺す。心が傾くと同時に、ただ立っているために集中させていた意識もぐらつき、姿勢を保てなくて崩れる。

「大丈夫?」

 冷たい視線の中、かけられた優しい言葉に涙が溢れた。

「うっわ、顔色悪……てか、全然息整わんし、絶対体調悪いやろ」

 先輩たちに聞こえるようなよく通る声で池田くんはそう言ってくれた。隠すつもりだったのに、気づいてくれたのが今は嬉しかった。

「体調悪いなら無理しないで。別に体験入部は強制じゃないし、今日だけじゃないから」

「そうだよ。1年生だけど保健室の場所わかる?」

 池田くんの声で、周りの冷たい空気は一気に温かくなった。

「僕が連れて行きます。また2人で来週参加するので、荷物は後で取りにきますね」

 池田くんはそう言って、腕を肩に回して支えてくれる。そういえば、入試の面接の後、倒れた俺を誰かが支えてくれた。池田くんが支えてくれる安心感はそのときに似ている。

「結構、朝から体調悪かったやろ」

 ふと池田くんはそう呟いた。確かに色々なことに目を向ける余裕があって、鋭く気づけそうだから、見抜かれていたのかもしれない。

「うん……でも、ぶかつ、……どうしても、いきたかったき」

 震えた声で、なんとなく言い訳した。本当は朝からではなく1週間──いや半年以上前から。なんて、そんな余計なことは言わなかったけれど。

「変なやつ」

 その言い方は、どこか呆れているようで、でも不思議と責める響きはなかった。むしろ、苦笑しているような、ちょっとだけ笑ってくれているような。
 変なこと言うたろうか、と少し不安になったけれど、その声が心の奥で、じんわりと温かかった。

 たどり着いた保健室には、あまりお世話になりたくはなかった。中学のときは保健室登校をしていたくらいだったけれど、やっぱり置いて行かれている気がして、迷惑かけている気がして、自分が普通ではない気がして。それにまだ親に迎えに来てもらうのは嫌だった。ちゃんと、俺の体調を考えて反対してくれたのに、それでも行くと言ったのは自分だから。

「39℃あるね……しんどかったでしょ」

 先生の声を聞いて、ようやく熱があったんだと自分でも気づく。いつもの疲労感なのか、風邪なのか、これはなんの熱なのかはわからないけど、それだけ熱があればしんどくても仕方ないかという気持ちになる。

 すぐに案内されたベッドにぐったりと身を沈め、目を閉じる。身体中が痛くて、重くて、もうここから動ける気がしない。

「荷物持ってきたき、ここの荷物おきに置いちょくね」

 あの重たいリュックをわざわざ運んでくれた池田くんには迷惑をかけてしまった。体験入部、参加したかったやろうに。

「ごめん、……池田くん、たいけん、できんかった……」

 そう言葉を発すると、じんわりと目頭が熱くなった。

「そんなん気にせんでいいき、今は身体を休めや」

「うん……」

 学年トップで効率主義な池田くんが迷惑と思わんかったことはないやろうけど、その優しい言葉を素直に受け取ろうと思った。

 池田くんが頭を優しく撫でてくれると、そのまま意識はどこかへ落ちていく。


**


 正直翔太がしんどそうなのは数日前から気づいていた。翔太のことが気になっていた俺が一方的に黙って目で追っていたのだ。

 あの日。まだ典文さんが生きていた頃、一度だけ連れて行ってくれた越知町の博物館。同い年の俺が来たことに心底嬉しそうに笑う少年。大好きなその博物館を、大好きな自然を、大好きな地元のことを、まるで学芸員のように語る姿は、典文さんが俺に生き物の面白さを語るときと似ていてなんだか記憶に深く残っている。時折、話しすぎてごめんだとか、やりすぎたというような遠慮もあったけれど、俺は別に嫌ではなかったし、むしろもっと聞いていたいとさえ思ったのだ。帰り道でも、あの少年──徳井翔太は面白い奴だと典文さんと笑い合った。

 まさか、彼とこの学校で再会を果たすなんて思わなかった。入試のとき、廊下で待機しているとその記憶を呼び戻すような名前が不意に聞こえてきたのだ。面接を終えた彼と少し話したいと思ったのに、扉が開いた瞬間に倒れた。慌てて支え、今日と同じように保健室まで肩を貸したのを、翔太は覚えているだろうか。

 クラス分けの名簿を見てまた喜んだ。あの体調で面接を受けてよく受かったなと感心したけれど、俺が心を動かされるくらいだからそれもそうかなんて謎の納得をしながら、これから3年間、いくらでも彼と話す機会があるのだと珍しく胸が高鳴った。

「徳井翔太です。えっと……越知町出身で、とにかく自然が好きで、色々勉強したくて、頑張って入りました! よろしくお願いします」

 名前も、住んでいる場所も、意気込みも。やっぱり思っていた通りだった。翔太の自己紹介以外はどうでもよくて、全然覚えてないのに、それだけは一言一句覚えている。緊張している様子も、何もかもが愛しくて、普段何にも心が動かない俺が、彼のことを考えると別人のようにときめく心を持つので不思議なものだ。

 俺の中での翔太との思わぬ再会から数日。なかなか話すタイミングが掴めずイライラする。新入生代表挨拶で壇上に上がり、決まらないことに苛立って引き受けた学級委員長の仕事、実力テストで実力を出してしまったことにより、変に目立ってしまったがために机を囲まれることが多かった。

 話しかけようと思った放課後は、なんだかいつもしんどそうで、妙に話しかけづらかった。けれど声をかけていればよかったと今になって後悔が滲む。

 体験入部に戻ることもできたけれど、1時間かかるという迎えが来るまでの間、これまでの後悔を埋めるように翔太のそばにいたいと思った。

 だいぶ血色の悪い顔なのに、頬だけは真っ赤で、浅い呼吸とともにその熱気が閉められたカーテンの中に満ちる。汗をかいているのに、なんとなく触れた手は小刻みに震えていて、少し冷たい。そんな状態の翔太に話しかけることはできないけれど、冷えた手を少しでも温めることなら。先生に言って毛布を足してもらうことなら。何か少しでも力になりたいと思ったのは、典文さん以外に初めてだった。

 こんなに体調が悪くて、勉強は頭に入っているのか。勉強したいという強い意志を持ってここに来たんだろうに、集中できていなかったら気の毒だ。……なんて思うのも、俺らしくないか。

 そんなことを考えながら、俺は1時間──ただぼうっと翔太の顔を眺めていた。

 翔太はずっと目を開けず、しんどそうに眠り込んでいた。
 俺はそんな翔太の手を握ったり、頭を撫でたり、ずれた毛布をかけなおしたり。

 ただそれだけしかできなかったけれど、そばにいたいと思う気持ちは、俺にとって滅多に湧き上がるものじゃなかった。