ちゃんと見てくれる人
「あの、池田くん……この間はありがとう……」 教室のドアが開いて、翔太がゆっくりと顔を覗かせた。久しぶりに見るその姿は、どこか頼りなく、少し背を丸めて立っている。マスクに隠れた表情は読みづらいが、うっすらと青白い額と、伏せ気味の目元が体調の悪さを物語っていた。声も掠れていて、弱々しく、今にも崩れてしまいそうだった。 ──やっぱりまだ治ってないんじゃないか。 「気にしなくていいよ。……なんか、まだしんどそうだけど、本当に来て大丈夫だった?」 思っていた何倍も優しい声が出て自分でも驚く。翔太の顔が見れない間、なんだかこっちの調子まで狂わされた。大丈夫かなって、今頃も寝込んでるんじゃないかなって、頭の中で繰り返しては、また無理やり意識を逸らす──そんな1週間だった。 「今日は保健室で過ごすことになっちゅうけど、お礼は言いたくて……」 そう言って、小さく笑った。言葉の端に咳が混じる。 手に持っているのは病院の名前が印刷された封筒。何かの診断結果か、あるいは経過観察の報告か。思わず目がそこに吸い寄せられる。 「……あのさ、聞いていいか迷ったけど、翔太は……何か病気? 聞いとくと、なんかあったときサポートできるかもしれないし」 自分の言葉に少し戸惑いを覚えながらも、問いかけた。言い訳じみた“サポート”という言葉を添えて、気になって仕方がなかった気持ちをごまかす。 翔太の目が揺れた。 「ううん……」 はっきりと首を横に振る。でも、その仕草にはどこか諦めにも似た重さがあった。ほんのわずかに封筒を持つ指先に力が入るのが見えた。 「なんか病気……やったらいいのに」 その呟きは、絞り出すように小さくて、それでいて妙に重かった。咄嗟に返す言葉が出てこない。 診断がつかない。そのことがどれほど彼を苦しめているのか、ほんの少しでもわかった気がした。 「そっか、……それはなんなが?」 「これは……」 一度何かを言いかけて、翔太は言葉を飲み込んだ。目を伏せ、視線を封筒に落とす。 「教室で授業受けれん言い訳みたいなが……」 ぽつりと、遠慮がちにそう呟く。 「風邪って、大げさに書いちゅうだけやし」 笑おうとして笑いきれなかった顔が、なんだか見ていられなかった。やるせなさと悔しさを伴った涙を見逃せない。笑うならちゃんと笑えよ。 「保健室行くがやろ。荷物持っちゃうき」 これ以上は聞かない方がいい。そう思って、自然に話を切り替えた。 「ありがとう……」 少しホッとしたように翔太は答えた。歩幅を合わせて進もうとするけれど、かなり意識しないと置いていってしまうほど、驚くほどゆっくりだった。一歩ごとに体の重さとだるさを感じているようで、リュックを背負っているわけでもないのに、背中に何かが乗っているように体が丸まり、つらそうに顔が歪む。さらに、不規則に聞こえてくる湿った咳と、浅く荒い呼吸がマスク越しでもはっきりとわかる。 こんな状態でわざわざ来たのか──その事実に、胸が詰まった。 「失礼します」 代わりにドアを開けて、保健室に入る。保健室特有の消毒液とかの匂いが鼻をくすぐる。 「おはよう。……まだちょっとしんどそうやね」 先生の声は柔らかかった。もう話が通っているのか、スムーズに翔太の状態を把握してくれている。 「おはようございます……」 翔太が小さく返事をすると、すぐにベッドに案内される。ベッドに向かうその足取りもふらついていて、隣を歩くこちらの方が心配で、思わず肩に手を添えた。 「あの、俺……保健室で、勉強……」 ベッドに体を沈めた翔太が、慌てるように言葉を繋いだ。横になるつもりではなかったという焦り。自分の意志で来て、自分の意志で過ごしたい。そんな必死さが滲んでいた。 「まずは少し休んでからね」 先生の返事もまた優しかった。それを聞いて、翔太は少しだけ安心したような顔で目を閉じる。 無理して笑って、無理して立って、無理してここに来て。なのに横になった途端、ふっと力が抜けていく。翔太の肩がわずかに上下して、浅い眠りに落ちていった。 「やっぱり、しんどいがやろ」 独り言のように呟いた。触れた額は先週ほどではないものの少し熱を持っている。この様子だとまだ熱も下がり切ってはいないんだろうなとぼんやり翔太の顔を見つめる。 ** 「池田くん」 カーテンの隙間から静かな声で呼びかけられて、葉輔は音を立てないようにそっとカーテンから出る。 「ちょっとだけ、話しても大丈夫?」 先生は優しく微笑みながら、ソファを指差す。遠回しではあったけれど、それが「ここで少し話そう」という合図だと分かった。 「はい」 促されるようにソファに腰掛ける。カーテンの向こうからは、かすかな寝息に咳が混じりつらそうだ。ぐっすりとは眠れていないんだろうな。 「池田くんは、先週も入試のときも徳井くんを保健室まで連れてきてくれたよね。徳井くんとは仲が良いの?」 「……いえ。まだそんなに話す仲でもないですよ。たまたま翔太の不調に気づくのがいつも俺なだけで」 言いながら、喉が詰まるような感覚がした。実際、翔太との会話だってほとんどないし、翔太のことを見ているのは自分の一方通行。なんか悔しかった。 「翔太の体調……本当は、どんな感じなんでしょうか。体調悪いところばっかり見てて、何か病気なのかって聞いたら違うって」 口にしてすぐ、言いすぎたかもしれないと後悔する。けれど、知りたかった。放っておけなかった。 先生は少しだけ目を伏せ、それから、静かに言葉を選ぶように話し始めた。 「気になる気持ちは分かるよ。でも、ごめんね。本人の許可がない限り、詳しいことを他の人に伝えることはできないんだ」 予想していた通りの答えだった。個人情報保護とか近頃うるさく言われるから仕方ない。けれど、実際に言われるとやっぱりもどかしかった。 「そうですよね……」 「ただね」 先生は続けた。 「彼自身も、自分の体調がはっきりわかっていない部分があるの。今は、病名がついてるわけじゃないけど、体力が落ちやすくて、無理をすると熱が出たり、強い疲労感が残ったりするようでね。少しずつ学校に慣れていけるように、医師とも相談しながら保健室で過ごす時間を作っていこうとしているところなの」 「……やっぱり、ずっとしんどかったんですね」 それがわかった、ちゃんと翔太の事情を知っている人から聞けただけでもずっと収穫だった。 あの日、体験入部に無理して来たこと。倒れるように崩れたこと。今日だって、あんな体でお礼を言いに教室まで来たこと。入試のときも、きっと相当無理をしていたんだろう。 全部、ただの“風邪”なんかじゃない。――けれど、病名はないんだ。それがどれだけ過酷なのか、俺の想像よりもきっとずっと、1人で背負っているものがあるんだろう。 思わず翔太のカーテンの方に目をやった。眠っている彼の顔は見えない。でも、あの小さな背中に、どれだけの苦しみが積もっていたんだろうと思った。 「……俺、翔太のためになんかしたい」 先生は驚いたように、けれど嬉しそうに少し微笑んだ。そんな言葉が漏れてしまったことに一番驚いたのは自分だけど。 「うーん、何か特別なことをしなくてもいいんじゃないかな。ただ、同じクラスに、ちゃんと見てくれる人がいるってだけで、きっとすごく安心できると思うよ」 先生はにこやかにそう言った。 それだけのことが、翔太にとって力になるのだろうか。わからないけれど、できることなら――その「ちゃんと見てくれる人」になりたいと思った。 やっぱり、翔太のことを考える俺は少し変だ。



